日本人初のオリンピック選手三島弥彦の父・三島通庸とはどんな人?

2019年NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三とともに
日本人として初めてオリンピックに出場した選手「三島弥彦」

その父「三島通庸(みしまみちつね)」
歴史上の人物として有名です。

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/三島通庸

三島通庸はどんな生涯を送ったのでしょうか?

目次

  1. 三島通庸・薩摩藩士時代
  2. 三島通庸・明治以降山形県令時代
  3. 三島通庸・その後の生涯

1. 三島通庸・薩摩藩士時代

三島通庸は1835年、薩摩藩の下級武士三島通純の長男として生まれました。
幼名は弥兵衛といいます。

少年のころから示現流剣術を修め、伊地知正治に兵学を学びました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊地知正治

この伊地知正治は逸話の多い人物です。

禁門の変・戊辰戦争で功をあげた軍略家です。
西郷隆盛をして
「伊地知先生さえあれば薩摩の軍略は大丈夫」
と言わしめた人物です。

さて、明治の初めのある日、内務卿として誰も抗うことができなかった
大久保利通のもとへ、伊地知正治がやってきました。

政策について論じるためです。
しかし、伊地知の意見は全く大久保と相いれることがありませんでした。

「そんなこと私の知ったことではない!」と大久保は一喝して
伊地知を追い返してしまいます。

このころの大久保の権勢は、
現代からは想像を絶するものでしょう。

また、剣を極めた伊地知を追い返せる、
大久保の胆力もすごいと思います。

後日、伊地知が大久保を再訪します。
政治の話は一切しません。
ナスや野菜の話ばかり。

話が弾んだところで、
伊地知は鉄張りの大キセルを取り出しました。

そして部屋にあった銀縁の火鉢を打ち付け、傷つけたのです。
あとは知らんぷりを決め込んだそうです。

大久保は眉をひそめてみていましたが、
伊地知を止めることはできなかった・・、ということです。

昔の人は枠が大きく豪胆で
面白いですね。(当事者にはなりたくないですが)


さて、そんな伊地知のもとで学んだ三島通庸は、
1859年薩摩藩の藩内組織、精忠組に参加します。

精忠組は、1862年には薩摩藩の内紛「寺田屋事件」に関与します。
三島は謹慎を言い渡されます。

その後、西郷隆盛に見いだされ、戊辰戦争で活躍します。
また薩摩藩の改革、民事奉行を務め、
この業績が大久保利通に評価され、明治新政府に出仕することになります。

彼が後年業績を数々あげられたのは、
このころの経験から始まっているのでしょう。
実務家であったのだと思います。

2.三島通庸の明治以降・山形県令時代

三島通庸の新政府での活躍は東京府参事に始まります。
銀座煉瓦街の建設にかかわっています。

銀座煉瓦街 出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/銀座煉瓦街

これは1872年銀座・築地一帯が大火で焼けてしまったため、
「不燃都市」の建設を目指して行われたものです。
土地買収など反対を乗り切って1877年に完成しました。

後の「土木県令」三島の片鱗がみえますね。

ちなみに当時
「レンガ造りの家に住むと、青ぶくれになって死ぬ」と
迷信がはびこったそうです。
銀座は西洋文化の中心地となり、発展していきます。


1874年、三島は酒田県令に就きます。
「ワッパ騒動」とよばれる百姓一揆を収めることが課題でした。

1872年「税を金で収めて良い」との布告が出たにも関わらず、
酒田県はコメで納めさせ、
米価との差額で、大きな利益を出していたのです。

重税に耐えかねた一万数千人の農民が、
「米価との差額を返せ!」と立ち上がった騒動でした。

県令に就任した三島は農民を弾圧しますが、官吏は更迭しました。
裁判により、農民には過払い分が返還されました。


1876年三島は山形県令となります。
鶴岡県(酒田県が改名)・旧山形県・置賜県が合併して誕生した県です。

三島が力を注いだのは、東京との交通の整備です。

当時の山形県は最上川と日本海の水運による
交通がメインでした。

また、山形県内の道路は劣悪で、
農産物の輸送に人が背負っていることさえあったそうです。

そこで、東京との最短距離の交通を確立するため、
県内の輸送事情を向上させるため
周囲の反対を押し切り、
米沢と福島とのあいだに「萬世大路」を建設しました。

栗子峠には当時としては
破格の全長864メートルの「栗子隧道(トンネル)」を通しました。

萬世大路は1881年に完成しています。

イギリスの旅行家、イザベラ・バードは
山形県に入ると道が立派なことに驚いたということです。

萬世大路のルートは現在の国道13号線ですね。

三島は県都山形の近代化に力を尽くしました。

高橋由一筆 山形市街図 出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/三島通庸

当時の三島の建設した建物、道路の数々が
絵画として残されています。

毀誉褒貶ある人物ですが、山形の発展に寄与したのは
間違いないでしょう。

3.三島通庸・その後の生涯

1882年三島は、福島県令となります。
ここでも、新潟県、栃木県、山形県へ通じる道路(会津三方道路)の建設を始めます。
まさに「土木県令」ですね。

しかし工事に駆り出されることや増税に反対した農民が蜂起します。
これに弾圧を加えました。
自由党・河野広中らが逮捕されます(福島事件)

https://ukiyoe-web-art-museum.weebly.com/yoshimune-6.html

さらに1884年栃木県令となった三島を爆殺しようとする
暗殺未遂事件が起こります。
(加波山(かばさん)事件)

このあたりの三島の弾圧の流れは
歴史の授業で習いますね。

三島は強引な政策から「鬼県令」と呼ばれました。

自由民権運動はおそらく筆者のイメージよりも
激しいものであったのかもしれません。


1885年、警視総監になると「保安条例」で、
激化していた自由民権運動家を取り締まりました。

秘密の集会・結社を禁じ、
内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れのあるものは
皇居から三里(11.8キロ)より外に追放されました。

警視総監時代の三島の業績は、
武術を振興したことです。
警視庁武術世話掛に武術家を採用しました。

これにより警視庁の武術は飛躍的に向上したそうです。

三島1888年に、脳溢血で世を去りました。
骨太な人生だと思います。

明治人らしい強引さと実務家の面を
あわせもった人物ですね。

福島県令の時代には、2.5倍の増税を
押し通そうとしたそうですから、
県民は大変だったでしょう。

三島には三島の展望があったと思われますが、
いつの時代も物事を実現していくのは大変ですね。

読んでいただきましてありがとうございました。

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