野口英世の生涯・金銭スキャンダルと名言

いまや千円札の「顔」として、
歴史の偉人として記録される野口英世。

蛇毒や梅毒の研究で評価されている一方、
借金癖、放蕩癖の激しさも有名です。

映画「遠き落日」でも、偉人でない
「人間的」な野口英世が描かれました。

この記事では「人間」野口英世の
スキャンダルと名言をまとめました。

目次

  1. 野口英世の生涯
  2. 野口英世のスキャンダル・金銭エピソード
  3. 野口英世の名言の数々

1.野口英世の生涯

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/野口英世

野口英世(1876年生~1928年没)

野口英世は現在の福島県耶麻郡猪苗代町に生まれました。
「野口清作」という名前でした。

父親の佐代助は、酒飲みであまり働かず
大変貧しい農家でした。

皆さんご存知の通り、
1歳のとき囲炉裏に転落し
左手に大やけどを負います。

子供の世界は、純粋な反面
容赦ない部分もありますので、
大変な思い悩んだと思います。

小学校では「生長」になります。
先生の代わり!に授業を行う生徒のことで
幼い時から相当に優秀であったと思われます。

そのため、教頭小林栄に援助を受け、
高等小学校に進学できました。
(当時は尋常小学校の4年間のみ義務教育)

高等小学校時代に、学校の仲間からの募金で
左手の手術を受けます。
これにより、左手が少し動かせるようになり、
野口が医学を志すきっかけとなりました。


出典 http://www.tdc.ac.jp/noguchi/02.html

1893年16歳で、会津若松の会陽医院に住み込みで働き、
医学の基礎を3年半学びました。

ここで、生涯の恩人・血脇守之助と知り合います。
1896年には、医術開業試験を受験するために上京しました。

野口の凄いところは、試験合格に数年かかるところを
一年で合格してしまったところです。

後期試験合格のため、
日本医科大学の前身「済生学舎」で勉強します。

1897年後期試験に合格、21歳で医師免許を取得しました。
高山高等歯科医学院、順天堂医院勤務をへて、
1898年伝染病研究所に入ります。

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/北里柴三郎

日本のコッホと呼ばれた、
北里柴三郎が所長の名門です。

研究の仕事ではなく、語学の能力が買われ、
翻訳、通訳、渉外の仕事でした。
ここで、サイモン・フレクスナー博士と知り合い、
後年アメリカに渡る糸口となりました。

このころ名前を「清作」から「英世」に改名しています。

1899年横浜港検疫所検疫官補となります。
仕事ぶりが認められ、清国でのペスト対策に派遣されます。

1900年12月、サイモン・フレクスナー博士を頼り、
アメリカに渡航します。

ほとんど面識がないほどの関係でしたが、
北里柴三郎の紹介状を片手に、
なんとかペンシルベニア大学医学部で助手となりました。

このあたりの行動力は凄まじいと思います。


ペンシルベニア大学では蛇毒の研究を行いました。
「野口はいつ眠るのか?」
と言われるほど、徹底した実験を行います。

これが評価され、1904年ロックフェラー研究所に入所します。

1911年梅毒スペロヘータの純粋培養に成功を発表。
世界的に野口英世の名前が知られるようになりました。
(ただし、この研究結果は現在否定されています)

1914年ロックフェラー医学研究所正員となりました。
また、この年のノーベル医学賞候補となりました。

1915年日本へ15年ぶりに一時帰国します。
二か月滞在し、講演の傍ら親孝行、恩人に恩返しを行います。

1918年黄熱病研究のため、エクアドルへ派遣。
1926年ペルー疣とオロヤ熱が同一病原であることを、
実験で証明し、アメリカの学会に認めさせました。

1927年黄熱病研究のため、現在のガーナ、アクラに渡航します。
1928年野口自身が黄熱病に罹り、現地で亡くなりました。51歳。

スケールの大きな人生です。

現在と違い、海外に簡単に渡航できる時代ではありません。
思い切って飛び立つだけの
覚悟と度胸があったということでしょう。

2.野口英世のスキャンダル・金銭エピソード

野口英世は金遣いの荒さが伝わっています。

①上京資金を使い切る

1896年の上京の際、
野口は、恩師小林栄などから40円の資金援助を受けます。

このころの1円は現在の3800円くらいです。
ただし、単純に比較できません。

当時の小学校の先生の初任給は8円くらいです。
つまり、1円で現在の20000円程度の価値があったということです。

20000×40で80万の価値です。

この大金を野口は酒や遊郭での放蕩で、
二か月で使い切ってしまいました。
家賃を払えなくなり、下宿を追い出されます。

そこで、血脇守之助は月額15円(現在30万の価値)の援助を
野口に与えます。

野口はすぐに使い切ってしまうため、
5円を三回に分けて渡したそうです。

微笑ましいエピソードですが
当時血脇は「いいかげんにしろ!」と
思っていたかもしれませんね。


野口は自身の振る舞いを気にはしていたのか、
名前を「清作」から「英世」に改名します。

当時のベストセラー小説「当世書生気質」の自堕落な
主人公・野々口精作に名前が似ていたためです。

「野々口精作」は以下のようなキャラクターです。

22-23歳くらいの医学生で、倉瀬の友人。放蕩者だが外面の良い偽善者で、自分の放蕩ぶりを隠すのが巧みなため、両親や親戚、学校などからは真面目な学生だと思われている。50円の借金があるが、彼の通う医学校では比較的ましな方らしい。倉瀬からは、根は利発者なので医者になればきっとうまくやるに違いない、と思われている。

引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/当世書生気質

借金をして、遊郭に入り浸る・・、
野口はやめられない自分自身に嫌になっていたのかもしれません。

「英世」という名前は恩師小林から与えられました。
世のためになるような優れた人になれ、との意です。

②留学資金500円を使い切る

アメリカ留学の際、
野口は知人から200円(現在400万円の価値)の援助を受けます。

さらに女学生・斉藤ます子と婚約し、
結納金300円(現在の価値600万円)を手に入れます。

野口はこの合計500円のほとんどを、
遊興で使ってしまします。

現在の1000万円。

さすがに血脇守之助もあきれてしまったそうです。
しかし彼は、野口の才能を信じて
300円借金をして与えました。

野口は結納金は返さないまま、結婚もせず
渡米してしまいました。

結納金は血脇が返済しました。


出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/血脇守之助

血脇がこれ程までに野口を援助するのは、
野口の努力、才能の面が
あまりに秀でていたためでしょう。
只者ではなかったのです。

3.野口英世の名言の数々

①「努力だ、勉強だ、それが天才だ。
誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ」

野口英世の真骨頂だと思います。
左手のコンプレックスと戦いながら、
資金援助が得られるほどに
努力し、大きな人生を描きました。

人間臭い情けないエピソードも多いですが、
努力家の野口の側面は、
何事を成すにも参考になると思います。

②「絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは
自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ」

この言葉が一番好きです。
人生大変なことが多いです。

私も持病のため会社を辞めざるをえなくなり、
海外転職いたしました。

転職前は絶望にかられた時もありますが、
何かしら手を打ってきたから
現在があるのだと思います。

現在も安定した身分とは言えませんが、
前に向かう努力は常にしていきたいと思います。

野口は「障害者であることは学問においては問題にならない」とも
言っています。

困難を克服していったことが
彼の人生の魅力です。

③「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。
人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」

私もろくでもない過去がありますが、
過去はどうしようもありません。

本当に自分で変えられることが出来るのは
自分自身だけだと思います。

野口の言いたかったことは、
もっとポジティブに、
自分の人生は
努力でいい方向に変えられるのだ、
ということだと思います。

④「人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの
周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである」

最後にもう一つ。
達観したような言葉ですね。

私はここまで達観できませんが、
ある程度は納得できます。

結局、他人の反応は自分の行動の
鏡だと思います。

野口が後半生、恩師や母親に
恩返ししたのは、
立派だと思います。
(婚約破棄した相手には何もしなかったのは残念ですが)

以上野口英世の生涯と金銭スキャンダル、名言についてまとめました。

歴史上の人物としてスケールが大きく、
失敗のエピソードも桁が外れすぎて魅力的な人物です。

情けない点がなければ、「聖人君子」で
身近に感じられなかったかもしれません。

目的に向かってがむしゃらな点は
我々も見習うべきだと思います。

読んでいただきましてありがとうございました。

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