インドの「グリーンファーザー」杉山龍丸の生涯「世界ナゼそこに?日本人」

砂漠化していたインドを緑化し
「グリーンファーザー」と呼ばれた杉山龍丸。
今でも現地の人々から
「タツマル」と尊敬されています。

後半生をインドに捧げた杉山龍丸の生涯をまとめました。

目次

  1. グリーンファーザー杉山龍丸・軍人の前半生
  2. グリーンファーザー杉山龍丸・インドとの出会い
  3. グリーンファーザー杉山龍丸・後半生をインド緑化に捧げる

1.グリーンファーザー杉山龍丸・軍人の前半生

http://www.tvu.co.jp/ program/2016_iwawomo/

杉山龍丸は1919年5月26日福岡県に生まれました。

祖父は杉山茂丸(1864年~1935年)で、
大正、昭和初期の政界の重鎮です。

祖父茂丸は25歳の時英国統治下の香港を訪れました。
「犬と中国人は入るべからず」の看板に驚愕します。

植民地支配の実情を知った茂丸は、
ラス・ビバリー・ボースや孫文と交流したり、
多くのアジア人独立運動家を支援しました。

アジアの人々を支援するため、
資金を投じて46000坪の「杉山農園」を造りました。

あらゆる作物の農業技術を伝え、
経済的自立をさせるのが目的です。

「インドという素晴らしい国があるから、大きくなったら行ってごらん」

「アジアの人々を救いなさい」

祖父茂丸の言葉は
生涯杉山龍丸の心にありました。


1935年、祖父・茂丸、翌1936年、父・夢野久作(小説家)が急死します。

「杉山農園を私物化せず、
当初の目的通りアジアの人々のために使え」

まだ十代の杉山龍丸は祖父の遺言を守り、
お金のかからない陸軍士官学校に入学します。

陸軍士官学校は「陸士(りくし)」と呼ばれ
当時の超エリート学校です。
相当頭の良い方だったのでしょう。

陸士の卒業後は陸軍航空技術学校へ進学します。
杉山龍丸は第一期生でした。
1941年12月には太平洋戦争が開戦します。


エンジンが止まり、墜落が頻発する、
航空機の改良に日夜頭を悩ませました。

零戦の設計者堀越二郎とも交流があったといいます。

陸軍飛行第31戦隊の整備隊長となった
杉山龍丸はフィリピンに転戦、その後ボルネオ島に脱出します。

ここで機銃掃射を受け、片肺を貫通する重傷を負いました。

戦後は、戦死した部下の家を一軒一軒回りました。
遺品を届ける際、戦死の状況を家族に伝えることほど辛いことはなかったそうです。

2.グリーンファーザー杉山龍丸とインドとの出会い

1954年、東京駅で陸士時代の同期と出会います。
同期はインド人の青年を連れていました。
杉山龍丸は青年の世話を押し付けられます。

ところがこの青年との交流から、
次々とインド人留学生がやって来ることになります。

何が人生を変えていくのか
その瞬間では分からないものですね。

ある時「ガンジーの直弟子」に出会います。
杉山龍丸は陶器の技術を彼に伝えました。
ガンジーの弟子も訪れるようになりました。

1955年、杉山龍丸は故郷福岡に戻り、
国際文化福祉協会を設立します。
インドの人々の支援を本格的に始めました。

3.グリーンファーザー杉山龍丸・後半生をインド緑化に捧げる

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャワハルラール・ネルー

あるときインドの首相ネルーからの電話が入ります。
「インドを助けてほしい。産業技術を伝えてほしい。」

1962年37歳の時、ネルー首相の親書を受け取って
杉山龍丸は初めてインドの土地を踏みます。

今のように海外へ行くことが一般的な時代ではありません。
遥か遠い知らざる国であったことでしょう。
相当の覚悟がいることだったと思います。


ネルー首相直々に歓待を受け、インド各地を旅します。
杉山龍丸が見たのは想像を絶するインドの貧しさでした。

箱の中に土を入れて、文字を書き勉強する子供たち。

煉瓦を作る為、木を伐採し砂漠化した大地。

作物が育たず、何百万の人々が餓死する事態。

まだ貧しかった日本とはいえ、
インドと比べれば恵まれている・・・・。

杉山龍丸はインドの緑化を心に決めます。

「ヒマラヤ山脈に源をもつ地下水源を植樹によってとどめる。」

乾燥と暑さに強く、
地中に深根を張る「ユーカリ」を植えることを提案します。

村々を辛抱強く回ります。
初めは懐疑的だった人々も
次第に積極的に手伝ってくれるようになりました。

現在国道一号線には470キロに及び、高さ15メートルを超すユーカリ並木が茂っています。

沿道一帯はゆたかな水田となりました。
植樹によって、地下水源が上昇したそうです。

農業により経済が活況化し、治安も安定しました。
現在のパンジャブ州ルディアナは、インドでも先進地帯となっています。


さらに、杉山龍丸は砂漠化の根本原因である
2400㎞のシュワリク丘陵の土砂崩壊を食い止めようと尽力します。

杉山龍丸は、モリンガとサダバルの木を植えることを提案します。

モリンガは、葉も実も食べることが出来ます。
パルプの原料になります。

サダバルは生命力が強く、投げ込むだけで根を張り成長します。

サダバルを植え続け、見事に土砂崩落を食い止めました。

この事業資金は日本政府からも援助がもらえず、
「杉山農園」を売却し費用に充てました。

140億円を超す大変な資産でしたが、信念の元、資金に充てたのです。

この胆力は真似できません。

インド水田に適した、コメを探し、
台湾の門外不出とされた「蓬莱米」を台湾政府に懇願して、インドに送ります。

その後、「蓬莱米」の栽培が成功し
杉山龍丸はインド訪問の際、見事に育った稲穂を目にします。

男の生きがいとはこういう事を言うんだ。
インドの大地にキスしたい気分だ

といったそうです。

生き方のスケールが大きくて、私には真似できません。

1987年、杉山龍丸は脳溢血に倒れます。
まだやり残したことがある・・と唇を噛みしめ
て闘病したということです。

闘病生活2年月ののち世を去りました。

インドの「グリーンファーザー」杉山竹丸についてまとめました。

壮大な生き方ですね。
「人の役に立つ」小さなことぐらいは出来るときにしたいと思いました。

杉山龍丸の人生は、軍人時代とインド時代で
大きくシーンを変えています。
生死の境をさまよったこともあります。

人生の転機はどこにあるか分からないと思います。
日々何かしら夢を追いたいですね。

読んでいただきましてありがとうございました。