楠木正成の知能戦とは?赤坂城の戦い・千早城の戦い【歴史秘話ヒストリア】

https://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正成

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉時代~南北朝時代の武士です。
数々の「知能戦」で活躍しました。

足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した後も
南朝(後醍醐天皇側)につきました。
形勢不利であった湊川の戦いで、自刃するまで忠義を貫きます。

当時から現在まで「軍事の天才」として評されています。
この記事では楠木正成の戦のハイライトともいえる、
「赤坂城の戦い」「千早城の戦い」記します。
【目次】
1・「軍事の天才」楠木正成の生涯
2・楠木正成が歴史の表舞台に躍り出た「赤坂城の戦い」
3・智将・楠木正成の戦の白眉「千早城の戦い」

1・「軍事の天才」楠木正成の生涯

楠木正成は生年は分かっていません。橘氏の末裔を自称しています。
河内の武士のイメージが強いのですが、出身地は駿河である説もあります

正成は鎌倉幕府に仕える武将でした。ところが、
1331年 後醍醐天皇が鎌倉幕府に反攻した「元弘の乱」に呼応し
「赤坂城の戦い」を起こしました。
これには敗れましたが、翌年の
1332年 赤坂城を奪還しています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/宇都宮公綱

勢力を増した正成勢は、和泉、河内へと兵を進めます。
危機を抱いた幕府は「坂東一の弓取り」名将、宇都宮公綱を送り込みます。
宇都宮高綱の軍勢は600騎程度でした。
少ない高綱の軍勢に、正成は一計を案じます。

「良将とは戦わずして勝つものだ。」
名将高綱と刃を交えることはせず、山に三日三晩、松明を燃やしました。
いつでも攻撃して来るかのように、心理的圧迫を与えたのです。
一週間ほどで、宇都宮公綱は兵を退いていきました。


1333年
幕府から30万騎の大群が送り込まれ、対峙したのが「千早城の戦い」です。
正成は3か月の戦いの末、これに勝利します。

足利高氏(のちの尊氏)が、京の六波羅探題攻め
新田義貞が鎌倉を落とし、鎌倉幕府は滅亡しました。


後醍醐天皇(尾形月耕筆) https://ja.wikipedia.org/wiki/建武の新政

1334年 後醍醐天皇により建武の新政が開始されます。
正成は天皇から絶大な信頼を受け、多くの所領を得ます。

しかし、朝廷中心の政治に武士の不満は募り、
1335年 足利尊氏は、乱の平定へ出かけた鎌倉で、朝廷に離反をします。

尊氏の軍勢は勢いを増すばかりで、京に入ります。
正成は新田義貞、北畠顕家と共に、尊氏軍を駆逐し、
尊氏軍を九州まで追いやることに成功します。


ところが、土着の武士の支持を得て、尊氏軍は九州で軍勢を立て直します。
1336年 10万の大軍となって、海路で兵庫(神戸市)に迫ります。

この頃には味方の新田義貞軍は2万に減少しており、
後醍醐天皇は正成に加勢を命じます。

圧倒的な戦力差に勝ち目のない戦でしたが、正成は兵庫(神戸市)へ向かいます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/桜井の別れ

この際、西国街道桜井駅(大阪府島本町)で、
正成は、子の正行(まさつら)に、
菊水の短刀を形見に渡し、別れを告げたといわれます。
このエピソードは「桜井の別れ」として謡曲や唱歌にもなっています。


新田軍、正成軍は劣勢で次第に分断されてゆきます。
700人いた正成軍は、16回の敵への突撃で73人となってしまいます。
5月25日武運尽き、
湊川で正成は弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自害しました。

死に臨むにあたり、正成・正季兄弟は
「七生滅賊」・・七度生まれ変わって敵を討つことを誓ったといいます。

正成が最後まで後醍醐天皇に忠義を貫いたことは、
後世で高く評価されています。

幕末には尊王の志士が、数多く彼の墓前に参詣しました。

明治となり1872年、 彼を祭った湊川神社が創建され
現在でも「楠公さん」として親しまれています。

2・楠木正成が歴史の表舞台に躍り出た「赤坂城の戦い」

https://ja.wikipedia.org/wiki/下赤坂城

「赤坂城の戦い」は1331年9月11日に起こりました。
楠木正成の武名を初めて世に知らしめた戦いです。

舞台となった下赤坂城は大阪府千早赤阪村にあります。
標高は185.7メートル。

1331年、後醍醐天皇は倒幕計画が発覚したため幕府に追われます。
3000の兵と共に笠置山に逃れました。

幕府は75000の兵で攻撃したため、笠置山は陥落。
後醍醐天皇は捕らえられますが、
護長親王は逃れ、正成と共に下赤坂城に立てこもりました。

ここで幕府は正規の4つの軍を全て投入しています。
太平記の記述では30万とされ、如何に正成を脅威と捉えていたかがわかります。


幕府の大軍は、下赤坂城を包囲します。対して200人程で籠る正成軍。
粗末な作りだった城を見て、幕府軍は「簡単に落とせる」判断を下します。

一斉に城へ襲い掛かりますが、
切り立った四方の城壁に来たタイミングで
正成軍は矢を射かけます。

狙われやすく、逃げ場のない城壁です。
幕府軍は1000名の死傷者を出してしまいます。


「これは容易にはいかぬ。」と、幕府軍は腰を据え
鎧兜を脱ぎ、いったん休みます。

そこを、潜んでいた正季・和田正遠軍が突いてきます。
幕府勢がひるんだところで、城に居た正成軍が攻め入ります。
幕府軍は大混乱になります。このあたりに戦略のセンスの良さを感じます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/下赤坂城

一旦態勢を立て直した幕府軍は、20万の兵力で城を再度囲みます。

しかし城は静寂で、一晩立っても静寂に包まれています。
「もう戦う余力はないのか?」
安心し、城壁に手をかけ城内に攻め込もうとしました。

ところが、これが正成の計略でした。
塀は二重であり、外側は偽物。
塀を吊るしてある縄を切れば、下へ落ちてしまう。

幕府軍が塀に手をかけた刹那、正成軍は縄を断ち切りました。

幕府軍は転落し、更には上から大石、大木が落とされます。
この日の戦いで幕府軍は700人以上の戦死者を出しました。


次なる城の攻略法を幕府軍は案じます。
外側の偽の塀を、長い熊手で引き倒そうとしました。

しかしこれも正成軍の思うつぼでした。

兵が近づき、塀が倒れたところで
熱湯を柄杓で浴びせたのです。
たまったものではありません。火傷する兵が300人程になりました。


懲りた幕府軍は、攻め入ることはせず、
包囲を続ける作戦に出ます。

さすがに山城であり、兵糧が尽きてきます。持久戦にはできません。
20日ほど持ちこたえましたが、正成軍は城を捨てることになります。

ただ、この「去り際」がまた見事です。
正成は、大きな穴に戦死した者の死体を20体ほど入れておきます。
城には火を放ち逃れました。

乗り込んだ幕府軍は、焼け落ちた城と焼死体を発見します。
焼死体では誰であるのか判別が難しい。
幕府軍はこれを「楠木正成一族」と勘違いしてしまいます。
正成はまんまと生き延びたのでした。
護長親王は山峡の十津川へと逃れています。

3・智将・楠木正成の戦の白眉「千早城の戦い」

https://ja.wikipedia.org/wiki/千早城の戦い

1333年 再び、千早城で幕府軍と正成軍が対峙します。
千早城は、赤坂城の背後の山上に位置します。

前面にあった上赤坂城(下赤坂城の本城)は、味方の平野将監が破れ落城します。
太平記によると、これに勢いづいた幕府軍が100万の大軍で
千早城を取り囲んだとされます。

さすがに誇張した表現でしょうが、幕府軍も総力を挙げて
正成軍を打ち破ろうとしていたのは間違いありません。


数で圧倒する幕府軍は、勢いのまま城に攻め入ろうとしますが、
そこは山城の攻守に長けた正成です。

大石を落とし、矢や石を浴びせ、谷底に落ちる者多く
みるみる死傷者が増えていきます。

幕府側は死者数を記録しましたが、12人いた書記は三日三晩筆を置けませんでした。


次に幕府軍は、水源を立って山上の正成軍を渇かそうとします。
しかし、これも正成には織り込み済みで
大木で作った多数の水槽に、大量の水を蓄えていました。
もちろん食料も十分です。

籠城は長期化します。

幕府軍は中だるみしてきます。
宴会をしたり、女を囲う者まであらわれます。

正成軍は挑発します。
藁人形30体ほどに甲冑を着せ、槍や弓を持たせました。
夜のとばりの内に、城の下に人形を並べました。
人形の後ろには500人の兵を待機させました。

朝方、合図とともに兵に鬨(とき)をあげさせます。(合戦の合図の叫び声)
幕府軍は、正成軍が攻め入ってきたと勘違いし、
城に向かい殺到します。

500人の正成軍は、矢を放ちながら、早々城内に退却し
幕府軍が城壁に近づいたところで、またもや大石を落とします。
この攻撃で幕府軍300人が死んだと言われます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/千早城の戦い

再び、にらみ合いとなりますが、幕府軍は鎌倉から
「早く城をおとせ」との催促を受けてしまいます。

そこで京から大工を呼び寄せ、大きな「橋」を建造させます。
谷を越え、城に一気に攻め入ろうとしたのです。
幅4.8メートル、長さ60メートル以上の規模と言われます。
現在の2車線道路の橋を想像すると、誇張感がありますが・・。


幕府軍は橋に縄をつけて城に架け、兵を大挙させます。
これに対し、正成軍は油と火で応戦します。

水鉄砲で油を幕府軍にあびせ、松明を投げつけて火だるまにします。
前方の兵は、後ろから殺到する兵で逃げられません。

深い谷に、逃げ場がありません。
次第に兵の重みで、橋は折れてしまいます。
谷底に落ちて死ぬ者が続出しました。

千早城の長期化した攻防は、幕府軍を弱体化させました。
兵力を削がれた鎌倉は新田義貞に落とされ、鎌倉幕府は滅亡しました。

まとめ

https://ja.wikipedia.org/wiki/湊川の戦い

楠木正成の代表的「知能戦」、赤坂城の戦い・千早城の戦いをたどりました。
卓越した戦略家として「日本開闢以来の名将」とうたわれた彼。
後醍醐天皇に最後まで尽くしした忠義もまた魅力です。

敵となった足利尊氏も正成には一目置いていました。
足利寄りの記述である「梅松論」にも
「敵も味方も彼の死を悼まぬものはなかった」とあります。

「太平記」には、尊氏が戦死した正成の首を
「死んだとしても家族に会いたいだろう・・」丁寧に遺族に返還したとの記述があります。

楠木正成を祭った「湊川神社」、首塚のある観心寺(大阪府河内長野市)
赤坂城・千早城(大阪府千早赤阪村)など、ゆかりの史跡は多く残っています。

清廉で勇猛な稀代の武将、楠木正成の足跡を辿るのも良いですね。
読んでいただきましてありがとうございました。