総理大臣・初就任が70歳を超える政治家は誰?(戦前編)

2020年9月16日菅義偉内閣が発足しました。
菅さんは71歳での首相初就任です。

2020年現在までに、総理大臣初就任の年齢が70歳をこえる政治家は11人います。
(再就任時に70代であった政治家はさらに多数になります)
この記事では戦前の総理大臣初就任・70代の内閣についてまとめました。

【目次】

1. 【1924年・大正13年】清浦圭吾内閣(73歳)
2. 【1931年・昭和6年】犬養毅内閣(76歳)
3. 【1932年・昭和7年】斉藤実内閣(73歳)
4. 【1939年・昭和14年】平沼騏一郎内閣(71歳)
5. 【1945年・昭和20年】鈴木貫太郎内閣(77歳)

1. 【1924年・大正13年】清浦圭吾内閣(73歳)

出典 Wikipedia

当時は大正デモクラシーと呼ばれ、納税額に関係なく投票できる「普通選挙法」を求めて
民衆運動が盛んで自由な風潮でした。

1914年に一度、清浦に組閣の大命が下りますが、政党や海軍の協力を得られず
なかなか組閣できません。
清浦はこれを人気のうなぎ屋「大和田」と絡めて評し
「大和田の前を通っているようなもんで、匂いだけはするんだが、なかなか御膳立てはやってこない。」と言いました。
結局、内閣は成立しませんでした。
世間は、鰻の匂いだけ嗅いで食べられず終いの
「鰻香内閣(まんこうないかく)」と嘲りました。


さて、清浦に再び組閣の命が回ってきたのは1924年です。
二回も組閣の機会が回ってくること自体、相当有能な方だったのでしょう。
しかし、民衆には超然主義(議会や政党の意見を聞かない)と批判され、人気はありませんでした。

内閣は発足することができました。
ところが、貴族院・軍部・官僚出身者のみ、政党から一切閣僚を出さず、極めて不評でした。
倒閣運動は激しく、僅か五か月で総辞職しました。
普通選挙法は翌1925年加藤高明内閣で成立しています。

清浦はこの後重臣として政府を支えました。
1942年92歳の天寿を全うしました。

2. 【1931年・昭和6年】犬養毅内閣(76歳)

右から二人目が犬養毅・右端は孫文の後継者・蒋介石(1929年) 出典 Wikipedia

就任時に、数え年で77歳(現在の一般的な数え方の満年齢は76歳)。
昭和の実盛(さねもり)と呼ばれました。
実盛とは、源平合戦で、白髪を黒く染めて戦った老将、斉藤実盛を指します。

犬養は、大正デモクラシーを率いた政党政治家として人気がありました。
また、清朝を打倒する辛亥革命を支援し、孫文を日本で匿いました。


1931年の、満州事変後に発足した犬養内閣は、
高橋是清を蔵相に迎え、景気は上向きになります。
しかし、軍縮に反対する海軍や満州の関東軍の暴走を抑え込み反感を買います。
1932年5月15日、
犬養の自宅に乗り込んできた海軍の青年将校(若い幹部候補)に暗殺されました。
世にいう5・15事件です。

犬養は撃たれた後も、
「今撃ったものを連れてこい。よく話して聞かすから。」
「9発撃って3発しか当たらぬとは・・・。軍はどういう訓練をしているのか?」
気丈に振舞いました。戦前の政治家の気骨を感じます。
その後息を引き取りました。


この日は、ちょうど来日していた喜劇王チャップリンの歓迎会の予定でした。
チャップリンの暗殺計画もあったといいます。
犬養の葬儀では「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼します」とチャップリンは弔電を送り驚かれました。

3. 【1932年・昭和7年】斉藤実内閣(73歳)

出典 近代日本人の肖像

犬養内閣の後を継いだのが斉藤内閣です。
政党同士の争いでは「非常時」は乗り切れないと、海軍長老の穏健派、斉藤に組閣の命が下されました。
閣僚は各政党、官僚、軍部などから成り「挙国一致内閣」と呼ばれました。
以降戦後まで政党内閣は現れませんでした。

斉藤はアメリカで駐在武官を四年経験しており、英語は堪能、米国人との交流も盛んでした。
また、驚異的な体力で、若いときは一週間くらい寝ないでも平気だったといいます。
性格は穏やか気が利いたようで、子供の通学路にガラス片が落ちていれば「危ないから」と拾っていました。

海軍大将山梨勝之進による斉藤実の人物評は
「美しいサロンで香り高いウイスキーを飲み静かに語る思い」だそうです。

優雅にどっしり落ち着いたイメージでしょうか?
ちなみに帝国海軍の父、山本権兵衛は「灼熱の太陽」との人物評です。


斉藤内閣は満州国を承認しています。当時の世論に押されて国際連盟を脱退しています。
また2年続いた満州事変を、塘沽(タンクー)停戦協定により終結させました。
荒廃した農村の立て直しにも力をいれ、評判の悪くない内閣でしたが、
贈収賄事件「帝人事件」により総辞職します。
この事件は全員無罪で、倒閣目的のでっち上げの可能性が高いと言われています。

斉藤は、1936年の2.26事件で暗殺されてしまいます。激動の時代です。

4. 【1939年・昭和14年】平沼騏一郎内閣(71歳)

最前列左が平沼騏一郎・右が近衛文麿  出典 Wikipedia

五摂家(藤原氏の末裔の公家のエリート)の筆頭、近衛文麿の後を継いで出現した内閣です。
近衛は「貴族」出身で40代若さ、長身で端正な顔立ちで内閣の発足当初大人気でした。
ところが、1937年に北京郊外で勃発した日中戦争の処置に失敗します。
近衛は優柔不断な上、ころころと奇策を打つため、戦火の拡大を止められず総辞職したのでした。

この後を継いだのが「司法界の大物」平沼騏一郎です。
平沼は斉藤内閣を倒した「帝人事件」の黒幕といわれます。


平沼内閣は政策も人事も近衛からの引継ぎで、
閣僚は7人も留任しました。
その上、近衛自身が無任所大臣で入閣し
「近衛・平沼交流内閣」と新聞に揶揄されました。

中国との戦争の幕引きを狙いますが、上手くいきません。
中国を支援する英米との関係も悪化してゆきます。
ドイツとは接近していましたが
そのドイツが、1939年8月、電撃的にソ連と独ソ相互不可侵条約を結びます。

日独共同の敵がソ連共産主義であるはずなのに、ドイツは「敵」と手を結んだのです。
平沼は「欧州の天地は複雑怪奇だ」の声明を出し内閣総辞職しました。
もう、訳が分からん!と言うことでしょう。

戦争末期は和平派と目されましたが、時には戦争継続を唱え
昭和天皇からはどっちつかずな者と見られていたようです。

平沼は戦後、東京裁判でA級戦犯として終身刑となりました。
1952年、病気で仮釈放されたのちに没しました。
生涯独身であった唯一の首相経験者です。

5. 【1945年・昭和20年】鈴木貫太郎内閣(77歳)

出典 Wikipedia

1945年になると、米国との戦争は、日本の敗北が決定的でした。
主要都市は空襲が激化し、3月には東京・大阪・名古屋などが大空襲に遭います。

沖縄への米軍上陸、中国との和平工作失敗で、小磯内閣が総辞職したのですが、
この状況で、次の総理大臣になりたい者は誰もいません。

そこに海軍出身で重臣となっていた鈴木に総理就任推薦が伝わります。
鈴木は「とんでもない話だ。お断りする。」と答えます。

ところが、昭和天皇に説得されます。
「この重大なときにあって、もう他に人はいない。頼むから承知してもらいたい。」

天皇陛下に直々に頼まれてまでは断ることが出来ませんでした。
こうして鈴木内閣が発足します。


鈴木内閣に期待されたのは「戦争和平」ですが、戦争継続を唱えるものも多く
如何に軟着陸させるか、命がけでした。

7月に連合国からポツダム宣言が発表された際、
鈴木は「黙殺する」と答えました。
これは「ノーコメント」の意でしたが、連合国には「拒絶」の意味と捉えられてしまいます。
広島・長崎への原爆投下の決断につながった見方があります。

鈴木は時には「戦争継続」を装いながら、終戦への根回しに尽力しました。
御前会議で昭和天皇に「聖断」を仰ぎ、ようやく戦争終結となりました。

戦争は始めるときも大変ですが、終わらせるのはもっと大変なのだと感じます。


鈴木は1936年の2・26事件で、海軍青年将校に襲撃され瀕死の重傷を負っています。
この他にも小さいころ馬に蹴られたり、川に落ちたり、海軍時代に海に落ちたり何度も死地彷徨っています。
日本を救うために生き永らえた不思議な人生だと思います。

1948年に亡くなる際「永遠の平和、永遠の平和」とはっきり繰り返しました。
遺灰の中には、2・26事件の弾丸が残っていたそうです。


この記事では、戦前までの「70代で総理初就任」の内閣をまとめました。
ちなみに、早稲田大学の開祖・大隈重信は、初就任60歳なのですが、第2次大隈内閣就任は76歳です。

読んでいただきましてありがとうございました。

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