映画「グラディエーター」は2000年に公開され、
第73回アカデミー賞・第58回ゴールデングローブ賞を受賞しました。
グラディエーターとは、古代ローマ帝国の「剣闘士」のことです。
この記事では剣闘士についてまとめました。
【目次】 1.剣闘士の簡単な歴史 2.剣闘士の養成所 3.闘技会はどんな様子? 4.最強の剣闘士・スパルタクスの反乱 |
1.剣闘士の簡単な歴史

出典 https://en.wikipedia.org/wiki/Gladiator
グラディエーターという名前は、
古代ローマで使用された武器の「グラディウス」という剣からきています。
日本語では「剣闘士」と訳されます。
歴史書に残る最古の剣闘士の闘技会は、
紀元前264年、ローマにて行われたものです。
ペラとマルクスという兄弟が、父の死を弔うために行いました。
三組の剣闘士を、市場で戦わせたのです。
この後、闘技会は、市民の娯楽の「見世物」として発展していきます。

コロッセウム 出典 https://en.wikipedia.org/wiki/Gladiator
ローマには円形競技場が次々と作られました。
(西暦)80年には5万人を収容する「コロッセウム」が完成します。
現在ローマのメインの観光地で世界遺産となっています。
コロッセウムの落成を祝い、100日間イベントが行われました。
一日5000頭の猛獣が殺され、期間中数百人の剣闘士が落命したといいます。
現代の感覚からはクレイジーですね。
当時猛獣を調達した北アフリカでは生息数が大きく減少したそうです。
次第に闘技会は大規模になり、一万人を超す大会も行われています。
隆盛を極めた闘技会が衰退する機は、380年に訪れます。
キリスト教が国教になると、
闘技会に係わるものは洗礼を受けることが出来なくなりました。
闘技会は人気が落ちていきます。
681年に、公式に禁止され、その歴史に幕を下ろしました。
2.剣闘士の養成所
剣闘士は、戦争捕虜や奴隷市場、犯罪者から集められました。
身分は低く、ローマ市民からは、堕落したもの・野蛮人・恥ずべき者と蔑まれ、
売春婦と変わらぬ扱いを受けました。
しかし勝ちつづければ名声や富を手にすることが出来る為、
勝利の栄誉に憧れて志願する「自由民」もいました。

ポンペイの剣闘士養成所跡 出典 https://en.wikipedia.org/wiki/剣闘士
剣闘士は養成所にて、効果的な戦い方、行進の仕方を徹底的に仕込まれます。
訓練はハードであり、外に逃げることもできなかった為、自殺してしまう者もいました。
訓練は、訓練生同士で行われ、木製の武器を使用しました。
怪我と反乱を避けるためです。
ラグビーの選手のように、2mの木の杭に体をぶつけて
筋肉づくりをしました。
また藁人形を使い、攻撃する訓練をしました。
食事に関しては強い肉体を作る為
大麦や豆など滋養のある食物が与えらたそうです。
剣闘士には様々なタイプがありました。
トラキア闘士、網闘士、追撃闘士など、コスチューム、武具が異なります。

出典 https://en.wikipedia.org/wiki/剣闘士
「魚兜闘士」はその名の通り、魚の形の兜をかぶっています。
印象的な姿は一度は目にしたことがあるのではないでしょうか?
訓練生の落ちこぼれは「野獣闘士」になるものが多く
猛獣と、槍で戦わねばなりませんでした。
3.闘技会はどんな様子?
闘技会の観覧券は市民に無料で配られ、
これが政治家の人気取りになっていました。
闘技会前夜は、剣闘士の顔見世も兼ねた、豪勢な公開晩餐会が行われました。
翌日の早朝から剣闘士の紹介の行進が行われます。
これは大層退屈なものだったようです。

出典 https://en.wikipedia.org/wiki/Gladiator
午前は前座として、野獣狩りがあります。
トラ、ヒョウ、ライオン、熊が闘技場に解き放たれます。
防具をまとった野獣闘士は命を落とすことは少なかったようですが、
犯罪者を戦わせる場合、いわば公開処刑だったようです。
午後はまず、罪人の処刑が行われます。
「処刑」なので、罪人同士で死ぬまで戦わされました。
生き残ったほうも後でとどめを刺される、容赦ないものでした。
その後いよいよ剣闘士の試合です。
実力が偏らぬようカードが組まれます。
興行主も闘技会が盛り上がらなければ
観客から非難を浴びるため、実力が拮抗するようにカードが組まれました。

出典 https://en.wikipedia.org/wiki/Gladiator
剣闘士の名前が呼ばれると、中央に進んで審判の傍で相手と対面、戦いが始まります。
相手を殺すか、怪我をさせて無力にすれば勝ちです。
人差し指を高くあげれば「試合終了」、盾を放り投げると降伏の意思表示となりました。
敗者は必ずしも殺されるわけではなく
戦いぶりが素晴らしかった場合は助命されました。
1つの戦いはおよそ10分から15分で終わりました。長くても20分。
一日10組から13組が戦われました。
勝者には多額の金品と、シュロの枝のパルマが与えられました。
特に秀でたものには、有名な月桂冠が与えられました。
剣闘士は年間3、4回の試合に出場し、20試合ほど経験すれば木剣を頂き引退しました。
1世紀ごろの記録では、
100試合(=200人)あたり19人の死者が出ましたが、
生き延びたものも多く、引退後は剣闘士の指導者や興行者になりました。
4.最強の剣闘士・スパルタクスの反乱
剣闘士は数あれど、最強の男として歴史に名を刻むものはスパルタクスです。
奴隷から剣闘士になった彼は、
紀元前73年、70人で剣闘士養成所を脱走し反乱を起こします。
軍勢に加わる奴隷は、女子供も含めて膨れ上がり、12万の勢力になり
南イタリアの各都市を占領します。
スパルタクスの指導力で軍紀は保たれており、
金品の私有を禁じ、平等に分配しました。
この振る舞いが後世で評価される一因となっています。
スパルタクスが蜂起した際、同族の女霊能力者がいました。
女は「彼の勢力は巨大となるであろう。しかし不幸な結末を迎えるだろう。」
と予言しました。
悲しいことにこれが的中します。

スパルタクスの死 出典 https://en.wikipedia.org/wiki/Spartacus
ローマの元老院は8個師団を動員し、名将クラッススに討伐に当たらせます。
紀元前71年スパルタクスの軍は敗れてしまいます。
ほとんどが戦死し、生き残った6千人も捕らえられ十字架に磔にされました。
スパルタクスも戦死しました。
彼の遺体の在りかは分かっていません。
この戦いは「第三次奴隷戦争」と呼ばれ、
これ以降二度と大規模な奴隷の反乱は起こりませんでした。
この記事ではグラディエイターについてまとめました。
現代の視点から見ると、残虐さもあり厳しい時代だったと思います。
平穏なくらしの有難みを感じますね。
読んでいただきましてありがとうございました。