2007年経済紙フォーブスの「地球上の長者番付」で第7位となったのが
コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルです。
彼の資産は300億ドルで、現在の資産価値にして3兆円となります。
(1兆円は1日100万円つかっても3000年以上かかる金額)
彼は麻薬組織「メデジンカルテル」を育て上げ「コカイン王」と呼ばれました。
栄華を極めた暮らし。度重なる政府・警察との抗争、テロ。
そして凄惨な最期。
この記事では、波乱に満ちたパブロ・エスコバルの生涯をたどります。
【目次】
1・世界一の麻薬王に上り詰めるパブロ・エスコバル
2・政府・警察との抗争・テロ
3・欺瞞の刑務所収監「ラ・カテドラル」
4・麻薬王パブロ・エスコバルの最後
1・世界一の麻薬王に上り詰めるパブロ・エスコバル
パブロ・エスコバルは1949年12月1日、
南米コロンビアのリオネグロで7人兄弟の3番の子として生まれ、メデジンで育ちました。
父親は農民、母は小学校教師の敬虔な家族でしたが、
彼は次第に悪事に手を染めていきます。
盗んだ墓石の転売から始まり、
メデジンの大学を中退する頃には、自動車窃盗、違法タバコの販売
偽物の宝くじの販売までしています。
1970年代初期には、麻薬の密輸を始めます。
身代金目的の誘拐も頻繁に行い、26歳にして3万ドルの銀行預金がありました。
マリファナの密輸も始めますが、彼の野望はこれにとどまりません。
この頃、アメリカでのコカインの需要が高まり、
コロンビアでは、ペルー、ボリビアからの
コカのペーストの持ち込み、精製が行われます。
アメリカへ輸送する中継基地となりつつありました。
1975年、エスコバルは、メデジンの麻薬王ファビオ・レストレポを殺害します。
以後ファビオ・レストレポの配下は
エスコバルの下で「仕事」することになります。
彼は絶大な権力を掌握したのです。
1976年にメデジンカルテルを設立。
同年、15歳のマリアと結婚しています。
メデジンカルテルは、南北アメリカ、アジアへと販路を拡大し、
1980年代半ばには、アメリカに流入するコカインの8割を
担うまでになりました。
毎月70トンから80トンが密輸され、
売り上げは週に420万ドル(現在の為替相場でも5億5千万円)を
上げたと言われています。
これにより、パブロ・エスコバルは
アメリカの経済紙フォーブスよる「地球上の富豪」第7位にランクインました。
彼の邸宅のひとつ「アシェンダ・ナポレス」の広大な敷地には、
彫刻博物館や動物園があり、カバ、キリン、ゾウまで飼われていました。
また彼は、貧困層の為に施し、家、ビル、サッカー場を建設し
サッカーチームのオーナーになるなど、人気も獲得しました。
1982年には、短期間ではありますが上院議員に当選。
彼の人生は頂点へ上り詰めます。
2・政府・警察との抗争・テロ
エスコバルは、潤沢な資金で警察、政治家を買収しました。
従わないものは容赦なく殺害し、「銀か鉛か(お金か?銃弾での死か?)」と呼ばれました。
彼が関与したと言われるテロは、
1985年 コロンビア最高裁占拠事件(300人の人質の内115人死亡)
1989年 大統領候補者3人の暗殺・アビアンカ航空203便の爆破(乗客107人と地上3人死亡)・首都ボゴタのDASビル爆破(63人死亡)
大きなものだけでもこれだけあります。
彼が生涯に殺した人数は3000人ともいわれ、
ライバル組織、カリカルテルとの抗争で
当時のメデジンは無法地帯となっていました。
1980年代後半、麻薬流入に手を打つべく、アメリカ・コロンビア両政府は
エスコバルのアメリカへの引き渡しと、アメリカでの裁判を行う協定を結びました。
しかし、メデジンカルテルによるテロの激化に、
コロンビア政府は屈服します。
エスコバルに、
・軽微な罪を認める代わりに他の罪を不問とする、
・アメリカへの移送を禁ずる、条件で
服役するよう交渉したのです。
1991年、彼はコロンビア政府に出頭します。
3・欺瞞の刑務所収監「ラ・カテドラル」
エスコバルは、収監と引き換えに
「ラ・カテドラル(教会)」と呼ばれる
彼専用の贅を極めた刑務所を建設させました。
警備員はエスコバルの息がかかった者のみ。
施設にはサッカー場、スパ、カジノ、ナイトクラブが併設されました。
カルテルへの指示は、刑務所から続けられ、
何一つ不自由ない囚人生活でした。
4・麻薬王パブロ・エスコバルの最後
収監の翌年、1992年エスコバルは刑務所内で殺人事件を起こします。
これにより世論が硬化。
ラ・カテドラルから一般の刑務所へ、エスコバルの移送が決定します。
1992年7月22日移送の日、エスコバルは内通者の協力を得て、
メデジン市内への逃走に成功しました。
業を煮やしたアメリカは、エスコバルを追い詰めるため、特殊任務部隊を送り込みます。
さらには、エスコバルに恨みをもつ人々が組織した
「ロス・ペペス(パブロ・エスコバルの犠牲者の意)」という集団が
エスコバルの部下や親族、弁護士など300人以上を殺害。
メデジン・カルテルの資産も破壊されていきます。
16ヶ月にわたる逃走劇は、1993年12月2日に終止符が打たれます。
コロンビアの電子調査チームが
メデジン市内の中産階級の家に隠れていたエスコバルを発見します。
携帯電話の発信電波から発覚しました。
コロンビア警察が突入。エスコバルの部下との銃撃戦になりました。
屋根から、裏通りに逃げようとするエスコバルに銃弾が浴びせられます。
足、胴に命中。そして耳を貫通した銃弾が致命傷となりました。
エスコバルの波乱の悪行人生は44歳で幕を閉じました。
まとめ
パブロ・エスコバルの暗躍したメデジンは
現在、治安を回復しています。
殺人発生率は1993年の20分の1となり
住民の3分の2が貧困を脱したと言われています。
積極的な教育・交通・投資政策が功を奏し、
2013年にはウォールストリートジャーナル
「最も革新的な都市」1位を獲得しています。
赤道近くに位置する、標高1500メートルの常春の都市。
メデジンにいつか旅してみたいものですね。
読んでいただきましてありがとうございました。