ベラ・チャスラフスカとプラハの春・その生涯は?

ベラ・チャスラフスカは
東京オリンピックで金メダルを3つ獲得

日本でも大変な人気となった、チェコスロバキアの体操選手です。

彼女自身も、日本を生涯愛し続けました。

国際情勢に翻弄された、ベラ・チャスラフスカの
栄光と挫折の生涯をまとめました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベラ・チャスラフスカ

目次

  1. ベラ・チャスラフスカと東京オリンピック
  2. ベラ・チャスラフスカとプラハの春
  3. ベラ・チャスラフスカとメキシコオリンピック
  4. チェコスロバキアの民主化とベラ・チャスラフスカ
  5. 息子マルティンの事件とその後の生涯

1. ベラ・チャスラフスカと東京オリンピック

ベラ・チャスラフスカは1942年5月3日、
ナチスドイツ占領下のチェコスロバキアに生まれました。

チェコスロバキアは体操の強豪国で、
オリンピック選手のエヴァ・サボコワに見いだされ、
14歳の時から体操の道に進むことになりました。

初めてのオリンピックは18歳、1960年のローマ大会。
個人総合では8位でした。

次の1964年東京オリンピックで、彼女は花を咲かせます。

チェコスロバキアの選手として、初めて個人総合で金メダルを獲ったのです。
跳馬と平均台でも金メダル。
チェコスロバキアチームは、団体総合銀メダルとなりました。


ベラ・チャスラフスカは日本でも人気が沸騰しました。

「東京の恋人」「オリンピックの名花」と呼ばれました。

連日、日本のファンからは扇子や浴衣、日本刀など
多数のプレゼントが送られ、
なんとトラック一台分以上となったということです。

そして彼女は、
1968年のメキシコオリンピックを目指します。

1967年欧州選手権(アムステルダム) https://ja.wikipedia.org/wiki/ベラ・チャスラフスカ

2.ベラ・チャスラフスカとプラハの春

1968年チェコスロバキアの首都プラハで、
民主化運動が活発になります。
「プラハの春」です。

ドュプチェク共産党第一書記のもとで
「人間の顔をした社会主義」をスローガンに
改革が行われたのが発端でした。

1968年4月、党への権限集中の是正、西側技術・市場経済の一部導入、
検閲の事実上廃止、表現の自由など
政治経済の改革を目指す「行動綱領」が採択されました。

日に日に市民の自由への熱望は高まり、
1968年6月27日、作家のルドヴィーク・ヴァツリークが
「二千語宣言」を発表しました。

これは改革の支持を表明し、
旧来の体制に戻ることを拒絶したものです。

多くの市民がこれに賛同し、ベラ・チャスラフスカも署名します。

街には西側諸国の文化押し寄せ、ミニスカートの女性も現れました。

しかし、「東側諸国(社会主義諸国)」の盟主ソビエト連邦は
「反革命的」と、これを許しませんでした。

*ソビエト連邦は現在のロシア、ウクライナ、カザフスタンなど15の共和国で
構成された社会主義国家連邦。1991年崩壊。

1968年8月20日・21日、東側諸国の連合軍、
ワルシャワ条約機構の軍、
二千台の戦車がプラハに侵攻したのです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alekseev_alexander_4.jpg

これにより、ドュプチェク共産党第一書記は逮捕され、
モスクワへ連行されました。

市民の死者は100人以上に及びました。

「プラハの春」は武力鎮圧されてしまったのです。

筆者は1975年生まれです。
1989年ベルリンの壁の崩壊まで、東西冷戦の時代でした。

小学生の頃、東側諸国は
ベールに包まれた「謎の国」のイメージでした。

簡単に行き来できませんし、情報も入ってきません。

現在から考えるより、相当壁があったと思います。

「ベルリンの壁」や「ソ連崩壊」など
とても想像できることではありませんでした。

ソ連の影響力は絶大でした。

そんなソ連に、民主化運動が消された時期に、
ベラ・チャスラフスカはメキシコオリンピックを迎えます。

3.メキシコオリンピックとベラ・チャスラフスカ

ベラ・チャスラフスカはソ連の侵攻中、
山小屋に身を潜め、練習は困難を極めました。

メキシコオリンピック会場入りしたのは、開会わずか5日前です。

東京オリンピック時と違い、
共産主義の「赤」のレオタードではなく
「濃紺」のレオタードで演じ抵抗の意を表しました。

個人総合・跳馬・段違い平行棒・ゆかの4種目で
金メダルを獲得しました。
団体総合と平均台でも銀メダルを獲得しています。

オリンピック開会中に彼女は、
東京オリンピック男子陸上1500m銀メダリストのヨゼフ・オドロジルと結婚します。

12月には、来日し「中日カップ・チェコ日本選抜体操大会」に出場しました。
その際次のようなセリフを残しています。

「人々は誰でも最後が美しくあることを望みます。私は愛する日本の人々に、私の最後の演技を見ていただきたかったのです。私はそれに成功しました。全てのものは生命をもっています。スポーツも同じだと思います。体操選手としてのベラ・チャスラフスカはここに生命を終えたのです」

彼女はその後の運命を予見していたのかもしれません。

4.チェコスロバキアの民主化とベラ・チャスラフスカ

帰国後の彼女を待っていたのは、
民主化を弾圧する政府でした。

彼女は「二千語宣言」の署名撤回を拒否したため、
仕事を与えられず、夫は軍を解雇されます。

掃除婦や子供の体操を指導する仕事で、
わずかな収入を得ました。

生活は困難を極め
1987年には離婚しています。

このつらい時期を、彼女は自宅に飾っていた
「日本刀」をみて自分を励ましたそうです。

署名を撤回、政府の主張に取り入れば
良い仕事を与えられたでしょう。

しかし彼女は決して自分の信念を曲げることはなかったのです。


歳月が流れ、ソ連の改革「ペレストロイカ」の端を発した
東側諸国の民主化が進みました。
1989年チェコスロバキアは「ビロード革命」により
ようやく民主化となりました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ビロード革命

ベラ・チャスラフスカも名誉が回復され
大統領補佐官やチェコオリンピック協会の総裁も務めています。

なお、1993年1月チェコとスロバキアは分離し独立します。
ビロード離婚と呼ばれています

5.息子マルティンの事件とその後の生涯

1993年彼女に悲劇が襲います。

元夫オドロジルと次男マルティンが酒場で口論喧嘩となり、
オドロジルは頭を打ち、一ヵ月後に死亡します。

オドロジルが、女性客に絡んでいたのを
マルティンが止めようとして喧嘩になったということです。

マスコミはベラ・チャスラフスカを大いに叩きます。
旧共産党の勢力が民主化の象徴の彼女を
目の敵にしていたと言われています。

ショックにより彼女は鬱になってしまいます。
以後14年、彼女は療養生活を送ることになってしまいました。

2007年ごろから徐々に社会復帰していきます。


2011年、東日本大震災が起こりました。
彼女は10月に来日、仙台で被災した子供たちを励ましました。

「日本のことは母国のように思っている」と語りました。
東京オリンピックで暖かく迎えてくれた、
日本への恩返しだったのかもしれません。

また翌2012年には、陸前高田市、大船渡市の子供26人を
プラハに招待しました。

彼女は生涯日本を愛し続けました。

「私は何か行動しようとするとき、日本人だったらどうするか、日本人にどう思われるか、とよく考えるのです。私は自分が想像する日本人の心を鏡にしているのです」

と語っています。

ベラ・チャスラフスカは2016年8月30日、
すい臓がんにより死去しました。74年の生涯でした。


映画のようなドラマティックな人生だと思いますが、
それを生き抜くことは
容易ではなかったと思います。

李香蘭(山口淑子)の生涯を思い出したりします。

自分の信じるものを貫く強さが
彼女の人生をより美しく見せているのかもしれません。

また、短い期間で人生を考えるのではなく、
なんとか走り切ることが大切なのかな、とも思いました。

読んでいただきましてありがとうございました

参考
五輪百景「日本を愛したベラ・チャスラフスカさんを悼む」
https://www.nikkansports.com/olympic/rio2016/column/hyakkei/news/1703097.html

「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」後藤正治著